紅茶を入れること

暗くて寒くて何もする気になれない朝、起きてはみたけれど座ったままぼうっとスマホSNSを見ることしかできない朝は、とにかく紅茶を入れる。

とりあえずやかんに水を汲む。こんろに掛ける。お湯を沸かしている間に顔を洗って歯を磨く。余裕があれば着替える。適当なワンピースを被るだけでもパジャマではなくなる。

お気に入りのカップを出す。お菓子をお皿に乗せる。ビスケットやチョコレート、なければ柿の種でもいい。今日はやきりんご味のビスコと、いつかのお土産に買ったちょっといい金平糖

お湯が沸いたらティーポットを温めて紅茶を入れる。猫舌なのでカップは温めない。とにかくお茶の時間にする。何もできない朝じゃない、何もできない自分じゃない、そのままぼうっとしていても、ただの優雅なティータイム。そこが例え統一感のない雑多な物で溢れたリビングだとしても。

言葉で消化すること

若くないから若い子の書く歌詞は刺さらない、などというのは老化だろうか。でもよく考えてみたら若い頃から人気曲の歌詞は刺さっていなかった。日本語を飾って捏ねて作った歌詞ほど刺さるのは中二病と言われるのだろうか。

言葉はどんどん簡素化していき、若い子と話していると自分の言葉も簡素化していく。無理な若作りは痛々しいと言われるけれど喋っているうちに勝手に移って簡素化してしまうのだから仕方ない。

言葉は思考だから簡単な言葉を使っていると自分の思考も簡素化していき、それは良いことのようにも思えるけれど私の場合は簡素化され切らない情報が頭の中に山積みになっていく。

その山積みの情報は、言葉をこねくり回してありとあらゆる表現を用いて消化するしかない、らしい。他の方法を知らない。

自分で表現できないから、表現を生業とする人の言葉に代弁してもらって消化していく。自分の言葉で表すことをやめてはいけない、というのは表現者寄りの考え方だと思う。

こんがらがった情報を他人の言葉で解して、ようやくその中に埋もれた自分の気持ちを探し出す。

書いてみること

あちこちで中途半端な文章を書き散らしては消してきたけれど、何でもいいから自分の気持ちを書いて発散したい気持ちは消えなくてメモ帳に意味のわからない文章が溜まっていく。小説を書きたいわけでもないしエッセイとして作品にしたいわけでもないけれど、どうせなら流してみることにした。面白さもオチも何もないけれど、とにかく書いてみる。